むかーし、むかーしのお話②

さて、とくに頭の中でまとまらずに書いてゆくので、着地点がどうなるかわかりませんが、とりあえず書いていきます。

前回の記事のゴスペルのくだりからの、演技論になってくるわけですが。

ひとつ疑問が湧いたのです。

役者は自分とは違う人物になることができる。それは、クリスチャンかもしれない、イスラム教の人かもしれないし、外国人にだってなることもあるわけで。

「クリスチャンを"演じて"ゴスペルを歌うならばそれは讃美になるのか?」



ここです。

ここなんですよ。


役者は観客に対して、生き生きとそのキャラクターを表現し生きなくてはならない。

観客には本物に見える、嘘をつかなくてはならないわけですね。

ステージに立つなら、
演じるのなら、
観客にとって、
パフォーマーのステータスなんぞ関係ないんじゃないかと。

あ、観客ありきでの話ね。

で、私が今のところ考えた結果が、

「自分自信が"そうであることを"認めているかいないか」


なのではないかと。

今回の例で言えば、クリスチャンであるか、ないかってことね。

だから、実はそういうのって第三者がどうこう言う問題ではないのでは?

と思ったわけです。

ただ、人間は「自分に都合のいいこと」しか見ない生き物ですから、
第三者の助言があることで、修正していったり、また積み上げていったりすることができるのだと思います。

ですので、結論としては、

「私は新約聖書でキリスト教のことを勉強した人間で、その上でゴスペルを歌う。讃美しているかどうかは、神様というものが決めるのであって、私が歌うことを楽しみ、観客が楽しんでくれたら良い」

ということを自分で認めるしかないわけです。

ここに嘘偽りはないのです。


まあ、現状の結論ですし、
これが合っているかもわかりません。
もしかしたら、また意見だって変わるかもしれないしね。

そんなこんなで、長らくもやもやしていた話はおしまい。


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